第21回  エトス −通信し合えないぼくらの時代−


 仕事でご一緒する俳優さんやナレーターさんの中には、驚くほど映画を観ている方がいらっしゃいます。

 映画評論めいた話を自慢気にする方はあまり好きになれませんが、秀作や佳作と言われる小作品を丹念に観て回り、パンフレットのくだらない映画評論の解説やマスコミの話題や評価とは違う、自分の目線でしっかり鑑賞され、共感したり、感動されてる姿にはいつも敬服します。映画人や映画関係者より的を得ている。こういう観客がもっと日本に育っていれば…。と思うことも度々です。

 あるとき、そんな方たちのお一人で、著名なナレーターのTさんに私の好きな韓国映画『イルマーレ』のお話をしたら、さっそくご覧になってくださいました。丁度ハリウッド版が上映されていた頃で、そちらもご覧になったようですが、私と同意見で、『イルマーレ』は東洋人でなければ描ききれない情感があり、ハリウッド版は明らかに駄作だったとおっしゃいました。

 Tさんは、お忙しくて、こちらも仕事でご無沙汰気味なのですが、あまり話題にならないが映画であっても高いクオリティを持つ作品を楽しく語れる数少ない、貴重なお仲間だと勝手に決めてつけています。

 『イルマーレ』についてはいろいろなところでコメントしているので、私の考えをご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、私が取り分け、この作品に執着するのは、他者と通信し合えない、孤独な私たちのいまを実に見事に映像化している点です。また、ありがちな、御伽噺のような恋愛ドラマのフォルムを使いながら、38度線で分断された民族の悲劇を、さりげなく、けれど痛烈に批評しているところです。それによって、この世界の通信し合えない孤独を普遍的なまでに人々に伝えます。それは、これも私が常に絶賛するあの映画『バベル』のように。

 私たちは、かつて、同じ規範を持ち、同じ倫理観、道徳観が共有できる生活の土壌に生きることができました。そのお蔭で、多少の意志の齟齬があったとしても、何となくまとまることができ、互いの意志疎通に大きな障害を感じることはありませんでした。

 それは言い換えれば、私たちの家庭、社会、そして国全体に、コモンセンスとして誰もが認知できる倫理があり、倫理が保たれていることによって安心感や安全を確認することができた世界があったからです。

 しかし、私がこのコーナーや講演でお話しているように、近代から戦後の西欧化、アメリカ化の潮流は、私たちの社会からこの倫理を押し流して行きました。さらに、私たちの通信範囲は村や町から日本全国、そして世界へと広がりました。交通手段の発達は地球を小さくし、インターネットはその距離さえ越えています。多様性という世界が私たちの眼前に無限に広がることで、伝統的で狭い世界観から生み出された倫理は希薄で脆弱なもののように人々の眼に映るようにります。

 とりわけアメリカ的消費文化から観ると近代以前、あるいは戦前の日本社会の倫理観は、とても貧相で弱々しく見えたのです。

 倫理とは英語でethics ドイツ語でethosと言います。
 ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、宗教とは何かと問われて、「それはエトスである」と簡潔に答えたと言います。

 ウェーバーは、宗教とエトス(倫理)をどうしてイーコールとしたのでしょう。

 それは原語の意味にあります。

 エシックス、あるいはエトスとは、日本語訳で倫理と簡単に訳しますが、欧米のそれが意味するのは、倫理によってもたらされるものすべてを含みます。ウェーバーが「宗教とは」と問われて、そこにエトスと答えたのは、エトスが原語通りに訳せば、「人間の行動様式を決めるもの」という意味があるからです。

 これも度々、述べているこですが、社会規範の根源には、古くはギリシャ都市国家、それ以前のエトルリア国家など土俗的な宗教理念が国家形成の基軸となっていました。ユダヤ、キリスト、イスラムという宗教も欧米・中東諸国の社会規範、倫理観の根源にあるのです。

 結果、宗教的所作、儀式が人間行動のルールブックとなり、その同じサインを出すことに異教徒とそうではないものの峻別が生まれます。

 三島由紀夫が言うように、私たちの国でこれに替わるものとしてあったのが、天皇制=天皇教です。が、しかし、戦後の民主化によって天皇は神格化されたものから人間へと転落しました。これによって、八百万の神の国でありながら、天皇によって統合されていた倫理の基軸は崩壊していったのです。

 もとを糾せば日本近代の誤りですが、いまでは宗教的理念がないゆえに、天皇にすがることもできず、世界に稀に見る無宗教国家が日本です。社会の成熟化によってもたらされたモラルハザードは単に消費文化によるものだけではなく、私たち日本人の精神性に立脚しています。

 おそらく、いま日本ほど他者との意志疎通に齟齬が出る民族はいないかもしれません。そして、社会規範、確たる倫理のない国はないかもしれません。

 今般の「あたご」による海難事故は、こうした私たちの国の実状をよく物語っています。

 公民、市民革命が生んだ国軍ではなく、統治者を守る政府軍である自衛隊=防衛省の側に、倫理に支えられた危機管理能力がなく、漁師町の高齢者たちの側にあるべき倫理がある。相互のモラルの基軸が事故という形でクラッシュしたとき、私たちの国が抱える矛盾が見事に透けて見えています。

 多様な基軸と行動様式によって、優先すべきもの、守るべきもの、救うべきもののあり様が変わります。多様であるがゆえに、通じない常識があります。通用してしまう非常識があります。非常識であったものが、常識となっていることも少なくありません。

 言うまでもなく、高い倫理に根ざし、行動様式を決める基軸がなければ、何が起きてもおかしくはない。

 私たちの社会は、いま、至るところで、いつクラッシュが起きてもおかしくないのです。事故対策だけでは問題の根本的な解決にならない至難さが実はあるのです。しかし、途轍もなく問題なのは、そのことに目覚め、気づき、行動する権力者が一人もいないことなのです。

      
TOPへ            リストへ